高遠そばって?からつゆって?
そばつゆと言えば、醤油と砂糖、みりんで作った返しに、鰹節や雑節でとった出汁を加えた江戸風つゆが一般的ですね。これを「辛つゆ、もりつゆ」と呼びます。これに薬味として大根おろし、ねぎ、山葵を加えてそばをたべます。信州で生まれたと言われる素朴なそばが、江戸のそば職人の手で洗練、熟成、完成されていったそばつゆの一つの姿です。
一方、わたしの育った信州伊那市高遠山間部の家庭で作られ、300年以上食べ続けられてきた「からつゆ」と呼ばれるのは、焼きみそ味のそばつゆです。大根おろしの辛味+こんがり焼き味噌の風味+ねぎの辛みでそばを食べる。これが、江戸時代から伝わるからつゆです。
そば切りの初期は、江戸でも醤油普及以前ですから、味噌を水で溶いて漉したつゆ(たれ味噌)でそばを食べていたので、みそ味のからつゆは醤油を使う前のそばつゆの原型ともいえるのかもしれません。
から汁を作る芝平のおばちゃん(平成15年ころ)
高遠そばの歴史
地元高遠で元々「高遠そば」と呼ばれていたわけではなく、会津でそう呼ばれたものが逆輸入されてきたものです(高遠のライオンズクラブが平成5年に会津を訪れたときに発見??したとされています)
江戸時代初期、蕎麦がようやくそば切りとして食べられはじめたころに、保科正之公が高遠から出羽を経て会津に移りました。高遠三万三千石から、23万石への格上げですから、カサマシして多くの家来を連れて行ったわけです。格に見合った家来の数にするために、高遠の百姓までも含まれていたと言われています。そのために、高遠のそば文化がそのまま会津に伝えられたんですね。その時、高遠から会津に伝えられた味が、300年もたった今でも高遠そばと呼ばれて残っていたわけです。
高遠の山間部にあったのは、<からつゆ>と呼ばれる焼きみそと辛味大根を合わせたツユ。高遠そばと言う呼び方自体は、300年以上のときを経て会津から高遠へ里帰りしてきたものなのです。
ちなみに、一本ねぎで食べる大内宿の高遠蕎麦(ねぎそば)は、三澤屋のご主人が考案された大内宿独自の商品で、古来より伝わる伝統と言うわけではありません。
高遠の藤沢、長藤、美義地区の家庭では、今でもからつゆでそばを食べるのが、一般的です。出汁が効いて、砂糖や味醂の甘みがある江戸風醤油味のつゆは「あまつゆ」と呼ばれます。高遠の家庭でからつゆが、進行形でたべられているのは、高遠城の足下(西高遠、東高遠)ではなく、高遠の中でも山間部(美義、藤沢など)が主になります。意外にも高遠からちょっと離れた伊那の羽広地区や春近地区でも、大根と焼き味噌のからつゆで食べられています。。
↑芝平のおばちゃんの作ったからつゆ。このくらい味噌分の濃いつゆなんです。
信州でそば切りが作り始められた江戸時代初期は、醤油がまだ庶民に普及する以前ですから、とても醤油味のそばつゆが使われていたとは考えられません。あったとしてもたまり醤油で、鰹節とともにかなり貴重な品であって、普段の食卓にのぼる調味料ではなかったでしょう。
江戸地方でも、そば切り初期は醤油でなく垂れ味噌で食べられていました。江戸での醤油普及は江戸中期以降と言われています。
また、現在の江戸風つゆに使われている味醂砂糖なども、高遠の庶民が手の届く範囲の調味料ではなかったでしょう。そばのような日常食が、畑で取れるものだけを組み合わでできていたのは当たり前ですね。そこで、身近にある味噌、ネギ、辛み大根を使ったつゆが考えられ、信州の比較的広い範囲で食べられていたのではないでしょうか。たまたま、そのつゆが高遠山間部などの狭い範囲だけに生き残ったと思われます。
みそ漬けを煮出してそばつゆを作っていたと言う北信州の富倉地区も、醤油普及以前の同じような事情からの工夫ですね。
と言うわけで、古くは醤油も砂糖も味醂も出汁も使わないわけですから、高遠そばの味の要は第一に大根おろし、次に焼き味噌です。辛みのない大根を使った場合には、からつゆとは似て非なるしろものができてしまいます。もっとも、味噌の成分が大根の辛味を阻害するらしく、混ぜてすこし時間がたつと辛味が弱くなってしまいます。辛味を味わうなら、混ぜたら早めに食べるか、そばに辛味大根をのせて食べるのがいいかも。
もともと高遠には、地大根として高遠の辛味大根があったわけですが、地元では残念ながら絶えてしまいました。ところが、遙か遠く会津で「あざき大根」として残っていたのです。会津に、「きのこのたかどおろす」と言う郷土料理がありますが、これはもちろん「きのこの高遠おろし」です。また、辛み大根を「たかど」と呼び、「今日はたかどで食べるか」と言えば、蕎麦を辛み大根で食べることを指すようです。高遠から保科正之公が高遠風そばの食べ方とともに、辛みの強い高遠大根を会津に伝えた一つの証しと言えましょう。
会津の高遠そばは、大根おろしの絞り汁に醤油で味付け、場合によっては鰹節を加えると言うものですが、その原型は、上記のような味噌味のつゆ(からつゆ)だったのです。伊那市内でも、普通のつゆに焼き味噌がそえられたものを高遠そばとして提供するそば屋さんが何カ所かありますが、こっちの方は高遠”風”とでも言ったらいいのでしょうか。
※当店の「からつゆ」は、本枯れ本節の鰹と枯れ鯖節からとったからつゆ専用の出汁を使っています。下の作り方のように家庭や地域によっては、出汁は使わないで、一番の洗い水を使う家庭もありますが、私の家では出汁を使っていましたし、やっぱり、一手間かけてとった出汁があった方がからつゆも美味しい。
高遠そば≒からつゆの作り方
例1 伝統的な作り方をいま風に
(1)クッキングシートかアルミホイールに信州味噌を3mmくらいに塗って、ガスレンジの魚焼き器かオーブンで焼きます。軽く焦げ目がついたら、すり鉢に入れ、軽くあたってなめらかにしておきます。
(2)味噌を焼いている間に、辛み大根(なければ普通の大根の先端部分)をおろし絞り汁をとりますが、この時固形の大根おろしも少し残します。長ネギは刻みますが、水に晒さない方が辛つゆらしいと思います。
(3)焼き味噌の入ったすり鉢に、「茹でたそばを洗った時の一番はじめの水」適量を入れ、更にオロシ、ネギを加えてできあがり。大きなすり鉢のまま食卓に載せます。それぞれ、すり鉢から手元の猪口に辛汁をとって、そばを頂きます。
例2 ちょっと新しい作り方
(1)は例(A)とまったく同じ
(2)大根おろしは絞らずにそのままきざみネギと一緒に焼き味噌に合わせます。
(3)煮干しで出汁をとり、薄めの醤油味をつけます。すりばちに入れたこれに(2)を薬味がわりに入れて、そばをいただきます。
※焼き味噌、大根おろし、ネギを合わせたものは、どろっとした濃い味のものですから、食べやすくするために、出汁を使うか洗い水を使うかの違いです。私が食べてそだったのは、例(2)の食べ方ですから、ますやでもこのつくり方を元にしています。
※辛み大根が手に入らない時は、曲がった細目の大根の先端部分が辛みが強くて辛つゆには向いています。常識的なおろしの量よりかなり多めに使うのが、美味しさの秘訣です。薬味と言うより「具」だとおもってください。味噌の酵素が大根おろしの辛さを中和してしまうからです。
からつゆは高遠の家庭の味ですから、このように家によってつくり方は違います。焼き味噌に胡桃を加えたりするバリエーションもありますし、季節毎に色々な変化を楽しむのもからつゆの楽しみです。
※からつゆのそば湯もなかなかおいしいですよ。
高遠芝平でのそばの打ち方
からつゆの本場と言われるのは、高遠の中でも芝平です。ここでは、伝統的なからつゆの作り方が残っているだけでなく、そばの打ち方も独特です。
まず、こねる器は「かぶとばち」と呼ばれる底の深い陶器製です。おやきやうどんなど粉ものを捏ねるのには全部この兜鉢をつかっていたわけですが、そばを捏ねるのに今風の浅いこね鉢に比べると、手の自由が効かないので慣れないとちょっと大変。プロの方で、かぶと鉢を使っているのは、松本の「野麦」くらいでしょうか。兜鉢は、ますやの入り口に飾ってありますのでみてください。
水回しは、お湯を使います。田舎に普及している簡易水道は、地下水などわき水が水源なので、硬度が高く水温も低いので水ごねだとつながりにくいんです。
更に違うのは、そば粉にひとつまみほど塩を加える事です。うどんでは塩をくわえるのは当たり前ですが、そばに塩を加えるのは、全国でも珍しいでしょう。もしかしたら、そば切りの原型は塩を加えて作っていたのでしょうか。そば切りは、うどんから派生したものと言われていますから、その可能性はゼロではないですね。
小麦粉は三割から三割三分を加えます。重さでなくて体積で計るのが昔風です。昔は、二八そばも重量比でなく、枡ではかる体積比なんですね。庶民に重さを計る道具は貴重品でしたが、木の枡なら手にはいったからでしょう。玄米も玄そばも、粉になってもすべて体積で計っていました。
また、今でこそ10割そばの方が格が上ですが、その当時は小麦粉が貴重品であり、のど越しの良い7割そばの方が高級品扱いだったのです。
芝平での打ち方は、湯ごね、延し棒は一本、角だし無し、巻き延し、手駒です。おばあちゃんの言うには、手駒の方がやりやすいそうです。包丁が菜切りですからね。私がみたシビラのそば打ちは、駒板、のし棒三本、角だしなど江戸で発展した手法の影響は、まったく受けていません。
会津の高遠そばと保科正之公
会津に高遠そばを伝えたのは、二代将軍秀忠の子で高遠藩主だった保科正之公です。東京の人には、親しみ深い「玉川上水」をつくった人物です。この保科正之公は、大変なそば好きだったと伝えられ、蕎麦打ち職人や食べ方、辛み大根(高遠大根)を、高遠藩から会津に転封した際に、伝えた人でもあります。名君と言われた保科正之公のことですから、米よりも短期間で栽培できるそばを救荒作物として普及させようと言う意図があったかもしれません。
正之公の時代に高遠ではすでにそば切りの文化があり、まだ他の地域ではそば切りが普及していなかったことが、このことから推測できます。きっと、信州から江戸へのそば切り伝播もこのころだったのでしょう。兵庫県出石のそばも、城主の転封で上田より伝わったものだということです。
現代の「会津の高遠そば」はしょうゆと大根おろしの絞り汁で食べますが、これは伝えられるうちに徐々に改良され上品になっていったのでしょう。元々の高遠そば(からつゆ)は、焼きみそ味の豪快で粗野なつゆだったのです。その時代から現代まで会津の地で、高遠そばの名前と共に高遠の蕎麦文化が形を変えながら綿々と伝えられていたのですね。
余談になりますが、正之公が高遠から連れていった家来の子孫に、小原の庄助さんと言う人物がいたようです。これが民謡会津磐梯山にうたわれている小原庄助さん本人かは定かではありませんが。小原(おばらと読みます)と言う地区は、いまでも高遠城址の対岸にあります。
高遠大根の復活
高遠町や高遠そば組合の主導で、あざき大根を系統選抜して300年ぶりに高遠大根としてよみがえりました。2007年から、高遠大根のブランドで栽培が始まりました。辛味はわさびの四倍、甘みも適度にある薬味に最適な大根です。固くて小さく水分はほとんどありません。
寒ざらし蕎麦のふるさと 高遠
寒ざらしそばとは、寒中2月の水中に約10日間浸けた後、更に寒中の寒さの中に晒すと言う手法です。今で言う「氷温」の原理で、アミノ酸組成やでんぷん質の組成を変えてうま味甘みを増し保存性を高めようと言うものです。
江戸時代、高島藩と高遠藩から幕府に献上された品物の中に、寒ざらし蕎麦があったと資料にあるそうです。この寒ざらしと言う手法も、当主の国替えによって山形などに高遠藩から伝えられたものです。
行者そばと高遠そば
WEBや雑誌などで「行者そば」と「高遠そば」を間違って表現していることが見受けられます。行者そばとは、修業のために信州に入った役小角と言う行者が伊那の内の萱にひとつかみの玄そばを置いていったと言う伝説です。雑誌やwebなどで、その時代からみそ味のからつゆがあり、そば切りとして食べられていたと言う記述になっているものがあるのです…
蕎麦の実は登呂遺跡から出土していることから分かるように、粒食や粉食として縄文弥生から食べられていた食物です。ですが、「そば切り」=麺食としては江戸時代初期ころ(1600年台)から始まった食べ方です。そば切りと言う食べ方は、たかだか三百年ほどの歴史しかないわけです。 そば切りとして日常的に食べるためには、大量の玄そばを効率的に粉にする必要があります。それには、ロータリーカーン=上臼下臼があって回す石臼が庶民に普及していることが前提になります。千本杵や横きねをつかう石臼では、大量処理は不可能ですから。寺院や武士のものだったロータリーカーンの庶民への普及は、ほぼそば切りの発展と一致しています。石臼が火薬製造のための道具であった戦国時代を経て、江戸時代の安定をもってそば切りは庶民に普及していったのです。
行者そばの伝説は奈良時代らしいですから、その頃まだ「そば切り」はありません。うどんの発展形として考案されたと言われるそば切りの発祥地は、塩尻の本山や甲州天目山などいろいろな説がありますが、いずれも発祥時期は江戸時代初期。行者そばの伝説と、高遠そば(からつゆ)=そば切りとはこれはもう千年単位で時代が違うわけです。(発祥の地についてはココが詳しい。)
しかも縄文弥生以前からさまざまな方法で食べられていた蕎麦が、奈良時代の信州になかったとはとても考えられません。役小角が実在の人物で、行者そばの伝説が事実だとしても、行者は特別に”旨い”あるいは”収量のある”玄そばを置いていったと言う事ではないでしょうか。
つまり「からつゆ」は伊那の平の広い範囲で食べられていたそばの食べ方。「そば切りとしての行者そば」や「高遠そば」の呼び方は、伊那においてはつい最近の呼び方であり、両方共起源は「からつゆ」であり同じものなんです。